環境の変化から、半ば強制的にミニマリストとして生活するようになって思ったのが、「減らすのはモノだけじゃなくて思考や習慣も減らしたほうがラクになる」ということ。
たとえば今まで食器はご飯茶碗、お味噌汁を入れる容器、大中小の皿、焼き魚用の食器⋯などたくさんの食器を持っていた。実家がそうだったからだ。
が、あるとき映画を見ていたときに、ふと「もしかして料理ってワンプレートにまとめたほうが洗い物も少なくなっていいんじゃね??」と気付き、それから食器はワンプレートとスープボウルのみになった。
自分が手放してきた思考や習慣のなかに、「親への報連相と許可申請」がある。
自分の親は支配的だった。自分の管理下に置きたくて、あれしなさいこれしなさいそれはしちゃダメと言い、しかし自分と子供を同一視してできないことがあれば怒鳴りつけるような親だった。
興味を持ったものを自分からしたい!と思ったら、まずは親に許可を取る必要があった。あるいは、もう辛い、もうやめたい思っても、親の許可がなければやめることができなかった。
その習慣が、思考が、大人になっても続いていた。
親に報告しないといけなきゃと思った。親が心配しないように。いつだって親に許可を求めていることに、判断を任せていることに気づいた。もういい大人なのに。
だが、支配的な親元で育つと報告を怠ることや勝手な行動をとることが、自分の身の安全や精神の平穏を脅かす直接的なリスクになる。それを子どもながら本能的に理解していたのだ。無理もない。
だからこそ、あの日自分が欲しいと思って、自分で判断して、自分で行動して、自分で手に入れたコンタクトレンズは本当に輝かしいものだった。
「勝手に眼科に行って勝手にコンタクトレンズを買うなんて⋯こんなこと言ったら絶対怒られる⋯」と思いながら、でもそれでも「自分は自分のやりたいことをやる」「なんで親にいちいち報告しなきゃいけないんだ??」と決意して歩いて眼科に行ったあの日のことを。
今でも頭に親の「呪い」がちらつく。
そんなときは、客観的にみるようにしている。「おいおい!お前はもう大人だぜ!どうして親に許可を取る必要があるんだ?親が死んだあとも許可を取り続けるのか?」と。
親は特別な存在だと思っていた。思い込んでいた。だが、さまざまな経験をしていくなかで、しょせん親も「他人」であることに気づいたとき、本当の自由を求めるようになった。
「幸せ」についての定義はそれこそ人それぞれだしひとつだけとは限らない。それでも自分がひとつあげるとするならば、幸せのひとつは「精神的な自立」だと思う。
親の支配から自由になること。いちいち親の感情に付き合わない。自分は自分、親は親。自分とは違う存在なのだと。

コメント